昇格したら、同期で独占する事は無かった
ノービス時代では、直線で抜けた2ストツインのTA125も
ジュニアクラスでは、ちゃんとセッティングが出来て来て
スリップストリームを使っても、中々抜けなくなった
コーナーリングスピードも鈴鹿レーシングと同等になっていた
シーズン前も、1年前の高揚は無く、ちょっと気が抜けていたようだ
1974年は「石油ショック」で年間4戦だけで「耐久レース」も無くなった
迎えて第1戦 予選は2列目の端っこになり、
フロントは2スト勢が増えた 「9」が無限さん スタートはまぁまぁ
周回を重ねて行くと、あちこちに同期が止まっている
そのうち、ブルーヘルメットの浅見さんと抜きつ抜かれつのデッドヒートになった
コーナーリングで浅見さんが突っ込んで来て抜いて行くが
直線やゴキブリの上りでは、自分に分が有った
まぁ当時は「朝研」より「製作所」のエンジンが強力だったので当然だ
当時シケインの無かった最終コーナーは、タンクにピッタリ伏せて
顎がトップブリッジのナットで血だらけになる位の「前乗り」で頑張った
帰ってきたら、まさかの「2位」! 同期は皆つぶれていた様だ
初戦で「2位」やった~
良い笑顔だ Cokeが、やけに美味しかった
レース前と打って変わって、意気揚々と帰って来た
この年からヘッドの変更が有って、
「RSC製ヘッド」から量産の輸出用XL125用(365)になった(別体ヘッドではない)
'75に発売される別体ヘッドのCB125JX「383]と似た燃焼室で(もっと浅い)
バルブも「383」と同等の大径になり効率が、グンと上がった
RSC製は「324」ベースで、ポートが小さく効率が劣る
RSCのヘッド加工は、同じ職場(工機課)の製作係で加工していたのを思い出す
カムシャフトのポイント側にボールベアリングを付けて
高回転に対処出来るような改造も施した(自分のだけ)
15000まで回せる様に考えたが、通常は13500程に抑えていた
登坂でチェンジすると回転が落ちる時は、15000まで回した
続く第2戦は筑波サーキット
なんと此処でも同期が次々と落ちて行き、「2位」ゲット!
ノービス時代より速くなったのは確かだが
レース終盤にTOPの2ストと競っていた吉村がリタイヤして、
コース脇で無限さんに向かって「抜け~」と両手を振って鼓舞していた
この時も通常運転の自分が表彰台に上がれるなんて考えていなかった
続く第3戦は鈴鹿
画像が残っていないので記憶が無いが、6位に入った
最終戦GPはウェット(半乾き)なので、ビビって6位に留まる
年間ランキング5位で終えて、「エキスパートジュニア」に昇格した
体の不調や将来の進路の悩み等の諸々の事情で、
たった2年間の8レースだけでレース生活を終了してしまった
ライダーとしては、もう限界だと良く自覚していたので十分満足だった
翌年の3月で製作所も辞めてしまった
職場の同期からは4年で勿体ないと言われた
違った方法で、ホンダに居る事も有っただろうが、
当時は、頭が回らなかった
オートバイ部の大先輩が「お前はエンジンが判っている」様な事を言われたのが
一番嬉しかった
'73/'74と「ベストチーム賞」を頂いた(2年連続日本一!)
丁度、その時に居合わせて幸運/光栄だった(多少のポイントは稼げたし)
その後、
ホンダ中古車のセールスマン(1年)
㈱無限の調達/営業(4年)
1年間の学び直し(1年)
紙幣計数機の設計(32年)
とアッチコチをウロウロして現在に至る
楽しく苦しい42年間だったが、
やはり、鈴鹿時代の4年間が一番の思い出だ
終了~