無限∞空間ー新館

1973 MFJ第3戦ノービス125 (CB125S鈴鹿レーシングSPL) 「21」於: 鈴鹿サーキット

レース事始(回顧)ー15(筑波サーキット初参戦/快走)

9月 第4戦は筑波 

4月の第1戦は治療明けで裏方仕事だったから、初走行~

初めてのサーキットは「小さい/狭い/回り込み」ってのが第一印象だった

「峠道みたいな鈴鹿」は先の見えない「ブラインドコーナー」が多い

ここ筑波は、小さいRのコーナーが3つ有るので、そこが問題だった

4H耐久から更にカウリングデザインも変更して「125」も追加した

10月のGPには「N90」にも参戦するので、

「90」との区別を付けるためだ

ゼッケン「93」は筑波専用 「95」の吉村君もGPでN90とダブルエントリーだ

ピットでの鈴鹿レーシングは、台数が多いためマシンを綺麗に並べて作業する

チームの雰囲気は和気あいあいとしてい、仲は良かった(はず)

練習走行になり、コースに出てみると、

関東勢がビュンビュン追い越していくし、

筑波2戦目の同期も、相変わらず速い

どうにもラインが判らない これは困ったと先輩に相談すると、

予選日の早朝に、DAX二人乗りでコースを1周して教えてくれた

これでなんとかイメージが沸き、

予選順位は3列目に並べた(同期は当然1列目)

当時、暖機はメインスタンド前をグルグル回るだけでコースは走らない(鈴鹿も同じ)

スタートのコツも先輩に教えてもらった(筑波は失敗すると悲劇が待っている)

赤⇒黄⇒青とランプが変わるが、「黄」が消えた瞬間に押せ!と言われた

まんまと成功し、押している間に2列目を抜いてしまい

エンジンも1発で掛かり、第一ヘアピンまでにぶっちぎりのTOPだ

TOPで帰ってきて、2週目もTOPだ

ただ、後から木山/佐藤/松山と詰めて来た

オイル処理の白い石灰?部分を避けてレースは続いた(鈴鹿/モテギはおがくず)

このままで行けば、また表彰台か!と思われたが、すんなりと行かない

 

スタート直後の第2ヘアピンで、ブレーキングしながら倒して行ったら

ブレーキペダルの先端が、が路面に接触して踏めなくなって

減速不十分で外側にすっ飛びそうになった

 

鈴鹿でのブレーキングで、リアを使うのはヘアピン以外ほとんどないから

ペダル角度が前下がりのままだったのが失敗だった

筑波では、前後のブレーキをキチンと掛けないと止まれないと判ったが、

後の祭りで、予選時に全く気付かなかった(決勝は別物だ)

第一コーナー・第二ヘアピンでリアブレーキが十分掛けられず、

ズルズルと後退して5位か6位で終わったはずだ

 

レース中盤に木山が最終コーナーのタイヤバリアに突っ込んだのを、

目の前で目撃して、ビビったのかもしれない

 

レースが終わってピットに帰ると、序盤の快走を見ていた部長や先輩から

「予選は三味線を弾いていたのか?」とからかわれた(褒められた?)

予選時と決勝の走りが全く異なるのが、自分の弱点だと悟った

でも2周だけだったが、TOPを走ったのは気分が良かった

自分の前に誰も走っていないのが、現実と思えなかった

 

当時は、DUNLOPゲート下のシケインは無かったので、

その下を、伏せたままアウトまで膨らんで行き、

第2ヘアピンに突っ込むラインが大好きになったのが収穫だった

今(2023)のシケイン部は、どうも好きになれないし

ラインが決まらないので苦手だ

 

なお、佐藤健正君もN125で走った(しかも速い)

ただ3位以内に入ると、来年ジュニアに自動昇格するので

ピットサインで、「3位に入るな!」と指示されたらしい

ちなみに、佐藤君は翌年のN125で当然の如く全勝して「Champ」になった

続く~